<歴史 日米対立の深淵>
1(シナ事変~日米開戦までの主な流れ)
前回は、下記流れ図でいえば、<南進政策への転換>までを見てました。今回は先を急がず、そもそも日本とアメリカは、いつから対立することになったのだろうか!?。その深淵について振り返っておきます。
シナ事変勃発(37年7月7日)→トラウトマン工作(37年11月2日)→「国民政府対手にせず」声明(38年1月16日)→シナ事変泥沼化→陸軍いったんシナ戦線からの順次撤兵を決める(40年3月30日)→ドイツ、オランダ・フランスへ侵攻開始(40年5月10日~)→オランダ軍降伏(40年5月15日)・フランス降伏(40年6月17日)→南進政策への転換(40年7月27日)→北部仏印進駐(40年9月23日)・日独伊三国同盟(40年9月27日)・・略・・→南部仏印進駐(41年7月28日)・・略・・→日米開戦(41年12月8日)
2(英仏租界の封鎖→米国・通商条約の破棄通告)
租界は、もともと中国国内にあっての治外法権的な地域でした。しかし、それがシナ事変後日本軍が華北地域を占領したことにより、天津などに存在していた英仏租界は、逆に日本の勢力を制限したり、しばしば反日的な運動の根拠地となっていました。そこで、現地日本軍の北支那方面軍は、国民政府発行の通貨駆逐などを狙って、ある事件をきっかけに英仏租界を封鎖しました(39年6月14日)。
この事件の解決について東京で日英間の交渉が行われ、日本側はイギリスから、いったん一定の譲歩を獲得することに成功しました(7月24日)。しかし、この措置に噛み付いたのがアメリカでした。アメリカはこの措置を日本によるイギリスへの譲歩強要と見て、その対抗措置として日米通商航海条約の破棄通告をして来ました(1939年昭和14年7月26日)。日米の具体的な対立は、この時点から始まります。
3(日米対立の伏線)
アメリカを中心とする米欧列強は、当時東アジアにおける国際秩序を、九カ国条約に基づくワシントン体制※に置いていました。それを日本政府(近衛内閣)が、シナ事変後においての「東亜新秩序声明」(38年11月3日)により同体制を否定したことが、そもそもの日米対立の深淵でした。アメリカは何かの機会(英仏租界封鎖)を捉えて、この通商条約破棄通告を手段として、日本政府への警告を行ったのです。出典:書籍1‐309頁
※ワシントン体制とは:日本・中国を含む欧米列強との間で結んだ中国の主権・領土の尊重、門戸開放、機会均等などを約した九カ国条約(1922年2月6日~)に基づく体制。詳しくは→関連前記事1<歴史 対支二十一カ条要求とは!?>の(満蒙権益とは!?)の項目参照。
4(これからの注目点)
このことは、のちのち出て来ますが、「英米可分・不可分論」とも関連します。世界秩序は、”アングロサクソン”が決めるという意識が、当時の米英指導層にあったことは、見逃せません。このことは、その後米ソの冷戦、ソ連(ロシア)の凋落・中国の台頭という環境変化はありますが、現在も続いている現実だと思います。
【直前記事】
1 <国策転換 南進・仏印進駐への背景>
【関連前記事】
1 <歴史 対支二十一カ条要求とは!?>
2 <年表 シナ事変~日米開戦まで>
【参考書籍】
1日本国際政治学会編『太平洋戦争への道』6南方進出
2北岡伸一『政党から軍部へ』
3川田稔『昭和陸軍の軌跡』
【後続記事】
<南進 仏印進駐と日独伊三国同盟>
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会社員(30)
フーバーはまだ政策も人格もまともですが、世界恐慌からの立て直しに失敗して彼が失脚すると、次に出てきたのがF.ルーズベルトでした。親ソ親中反日に偏る彼の側近はハリー・ホワイト始めコミンテルのスパイばかりで近衛内閣と同じような有り様で、しかも人格的にも極度のレイシストという救いようのない状態でした。
管理者Gくん
会社員(30)さんがよくおっしゃる慰安婦問題でよく出て来る「挺対協」、これも韓国の国益で動いている団体ではありません。その工作の被害者は、日本であり韓国であるかも知れません。現実に韓国政府は、米軍慰安婦問題で訴えられています。偶然にもその姿勢は、朝日新聞とも似ています。
アメリカは、何かのタイミングで通商条約破棄を狙っていたとは、調べていて驚きでした。この頃の中東政策もそうですが、国際秩序はアングロサクソンが決めるという態度、それこそ会社員(30)さんのおっしゃるレイシストだと思います。